アメリカが20世紀に築いてきた国際的威信の元手がすべて崩れてしまった。それと同じように日本もこれまで築いてきた信用の原資を実質的に失うことになってしまう。

憲法に9条という形で、安全保障を大きく制約する規定が設けられているのは、世界で一般的なやり方ではない。しかし、それこそが、戦後日本が一貫して追求してきたプロジェクトであり、この意義というものを改めて強調せざるを得ない。戦後日本では、戦前から戦中の経験をふまえて、政治に何らかの歯止めを設けないと、政治そのものが破たんしかねないと考えてきた。政治が暴走する危険が大きい。そういう判断のもとに、憲法9条等にある種の歯止めの役割を期待してきた。“それはもう古い”というのが容認派の主張だが、古いというからには政治が自ら武力行使の歯止めになること、その議論ができるということを示して欲しい。 イラク戦争では「サダム・フセイン大量破壊兵器を持っている」というガセネタに基づいて日本も協力した。これについてその後、アメリカではかなり政治的な厳しい議論があり、イギリスでもブレア政権に対して極めて厳しい追及が行われたが、日本では何も行われていない。そして、政治家や政治学者として、イラクへの介入を推進した人々が現在、集団的自衛権行使を進めようとしている。まずは、かつて安全保障について適切な判断ができなかったことの反省をした上でなければ受け容れられない。 現在、容認派は「必要最小限」というレトリックを使ってなんとか突破しようとしているが、この必要最小限という言葉は、戦争のやり方に関する基準「交戦法規」であって、戦争や武力行使をやるかどうかの基準「開戦法規」ではない。これを意図的にごまかして、「集団的自衛権を認めても、めったに手は振り上げません」と印象操作をしている。この「必要最小限」というのは歯止めにはならず、結局、すべて政治家の判断にお任せということになる。北岡氏ら容認派は「政治家は選挙の洗礼を受けるからいいのだ」といった乱暴な議論をするが、泥沼のような戦争に入ってしまった後で、いくら選挙で与党を倒したって取り返しはつかない。まずはイラク戦争の検証を徹底的にやってから、この問題を提起して欲しい。先日、保守とリベラルの垣根を越えた学者たちによる「立憲デモクラシーの会」が組織され、集団的自衛権容認に反対する声明を出した。会見を開いたのは、小林節慶應義塾大学名誉教授・憲法学)、阪口正二郎(一橋大学憲法学)、杉田敦(法政大学・政治学)、中野晃一(上智大学政治学)、山口二郎(法政大学・政治学)、千葉眞(国際基督教大学政治学)、西谷修立教大学・思想史)、小森陽一東京大学・日本文学)の8名。内閣の憲法解釈の変更によって憲法9条の中身を実質的に改変する安倍政権の「方向性」は、憲法に基づく政治という近代国家の立憲主義を否定するものであり、「法の支配」から恣意的な「人の支配」への逆行である。 →野党時代の自民はまともなことを言っていた。民主党政権下の2010年、自民党は『月刊自由民主』(2月号)の中で「憲法は、主権者である国民が政府・国会の権限を“制限”するための法であるという性格を持ち、その解釈が、政治的恣意によって安易に変更されることは、国民主権の基本原則の観点から許されない」とはっきり書いている。いわば「立憲デモクラシーの会」の立場は、2010年の自民党の見解と全く同じ。閣議決定による憲法解釈の変更をもし許せば、日本も非民主国家のように『法の支配』ではなく『人の支配』の国になってしまう。首相が示した集団的自衛権を必要とする事例は、軍事常識上ありえない「机上の空論」である。また、抑止力論だけを強調し、日本の集団的自衛権行使が他国からの攻撃を誘発し、かえって国民の生命を危険にさらすことへの考慮が全く欠けている点でも、現実的ではない。 →日本が米軍を守る為に集団的自衛権を行使して武力攻撃を一緒に行えば、相手側に「日本は戦争を仕掛けた」と解釈される。当然、報復があり、結果的に全面的な戦争参加につながり、かえって国民を危険にさらしかねないという側面を、安倍氏は意図的か、あるいは無知ゆえか無視している。日本海沿岸には多数の原発があり、通常兵器による戦争は、すなわち、核戦争を意味する。そのような脆弱な国土を作っておいて、武力攻撃を行うという事をどこまで真面目に考えているのか。※そもそも、米国側は米軍艦船に一般邦人を載せることを過去に断っているし、現在も想定していない。必要最小限度」の集団的自衛権の行使など、実戦では困難であり非現実的。 →同盟軍と一緒に戦っている最中に、「必要最小限度を超えた」という理由で日本が単独で戦線を離脱するなど実際には不可能。武力行使の基準が「放置すると我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」という不明確なものであり、集団的自衛権はいったん行使をすれば歯止めがなくるのは明らか。憲法9条の「交戦権の否認」とも真っ向から対立している。日本は戦後ずっと、多少の政治的な考えや立場の違いはあっても、戦争はやらない、少なくとも外国に軍隊を送って人を殺すようなことはしない、他国を荒らさない、といった枠組みを守ってきた。それをベースに日本は国際貢献をやってきたという実績がある。その60年の努力の積み重ねを、ただひとつの内閣が消し去ろうとしている。 米国がイラクの不都合な体制を壊して、その結果どうなったかといえば、あの国はもはや何十年にもわたって安定的な社会ができないような場所になってしまった。それがまたさらに色々な所に飛び火し、アメリカが20世紀に築いてきた国際的威信の元手がすべて崩れてしまった。それと同じように、日本もこれまで築いてきた信用の原資を実質的に失うことになってしまう。集団的自衛権の本質は「同盟国の戦に我が国は無条件で駆けつけて参戦する」。この事が忘れられて、「尖閣諸島は危ないでしょう」「やる事は少しだけだから」「限定的だからいいでしょう」と何か細かな状況論議に変わってしまっている。9条はどう見たって、文言と歴史的背景からいって、海外派兵を厳禁しているとしか読めない。 「必要最小限(の武力行使)」という言葉は安全弁のように言われるが、「必要です」といって武力行使が始まったら、無限の安心感を持つまで、「だって必要を感じるから」と歯止めがなくなる。 憲法9条のおかげで、戦後日本が戦(いくさ)働きをしないできたという事は、“こんな大国があるのだ”という、自民党が好きな言葉で言えばユニークな「国柄」になる。私は本当にこの国の国民でよかったと思う。今の世界の中でこんな大国で、武器を振り回さない、我慢強い国民がいるという事がこれからの世界にとってどれほど重要か。この国の「国柄」を捨てることの恐ろしさというか、もったいなさを感じる。自民党が野党時代に採択した平成22年綱領の中に「意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない」という一節がある。当時は民主党の政治主導というものをそういった形で批判していた。しかし昨年、麻生副首相の“ナチスの手口を見習え”発言があった(麻生氏「(戦前ドイツの)憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」)。正確にはナチス憲法というものは存在せず、ワイマール憲法が全権委任法によって無効化されて、ヒトラー独裁制が成立したわけだが、麻生氏は日本においても、憲法について法律どころかその前の段階として、閣議決定によって憲法を無効化してしまおうと主張。 しかもそのやり方が、国民をバカにしているようにしか思えない。腹話術師(安倍氏)が人形(安保法制懇)に対して、極端なことを言わせて、そのあとで腹話術師が「そんなことはできないだろう」とたしなめたような形で、あたかも何かが良くなったような形で、とんでもない暴論を通そうとする猿芝居。その意図はハッキリわかっているにもかかわらず、マスコミは猿芝居に付き合っている。これほど政党システムが壊れたことは戦後の日本ではなかった。もし公明党が、腹話術の人形をやらないといえば、今度は維新の会、みんなの党が、人形をやりますよと待っている。 「特定秘密保護法が成立したことで、これから安全保障は軍事機密という形で国民の議論から益々遠ざかっていくことが決まっている。その中で、安全保障に関して、政府が武力攻撃を必要と判断したものに対して国民が関わっていく余地はなくなってくる。政府が“巻き込まれる”という形を作り上げ、自衛隊員にもしものことがおきたら、マスコミは勇気を出して批判できるのか。今、これだけの状況でも議論できていないのに、実際に日本人に死傷者が出た時に「そもそも戦うべきでない戦争なのだ」と政権批判がどこまでできるのか。 安倍氏は「限定容認論」という形で、とにかく通してしまえば、トロイの木馬を一頭でも通してしまえば、あとは城壁がないも同然と分かっている。マスコミは猿芝居と知りながら、毎日毎日、どうでもいい議論をとにかく報道し続け、あたかも政権が時間を使って何らかの妥協をしたような形を見せる演出に加担している。まさに、麻生副首相がナチスを引き合いにした憲法の無効化が目の前で行われている。」